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全盛期の太子伝説


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『聖徳太子伝暦』より

*金色の僧の姿で母の胎内に宿った
*妊娠八か月で言葉が腹の外に聞こえてきた
*胎内に十二か月いた
*厩の中で急に産気づき、知らないうちに出産してしまった
*出産時、周囲が光り輝いた
*二歳の時、東に向かって「南無仏」と再拝した。以後毎朝行っていたが、七歳になるとやめた
*幼時より非常に賢く、その体からは芳香を発していた。そのため、後宮の者は競って太子を抱こうとした
*おばがのちに天皇(推古天皇)となることを予言した
*幼くして書の達人となる
*六歳の時、自分は前世では漢にいて、衡山(五岳の一、南嶽)の峯に住み何十度も転生しながら仏道を修行していた、と語る
*百済の経典数百巻を一年足らずで読了した
*ある歌の名手のもとに夜な夜な訪れる異人の話を聞き、それは火星が人に化したものであると言い当てる
*童子三十六人に順番に思うところを述べさせ、そのとおりに復唱した
*腕力でも弓射でも遊戯でも太子にかなう者はいなかった
*空中浮揚ができ、走れば雷電のようで、瞬間移動もできた
*百済の人・日羅からは「神人」と呼ばれる

*物部守屋との戦いで四天王像を彫って誓願し、その矢をもって守屋を射殺させる
*崇峻天皇の人相を見、命の危険を予言する


*高麗の僧・恵慈より「真人」と呼ばれる
*ある訴訟で、八人が一斉に各々の主張を訴えたが、太子は一々聞き分けて答弁した
*法興寺落慶の無遮大会にて、夕刻に花蓋のような形の紫雲が下ってきて堂や仏堂を覆い、
紫雲は五色の雲や龍鳳、人獣へと次々と姿を変え、かなりの時間変幻したのち、西へ向かって流れ去った。
太子は合掌してその雲を見送り、この寺に天が感応したためにこの瑞祥が現れたことを明らかにし、
しかし法興寺はこの後三百年で荒廃し、五百年後には廃亡するであろうと予言する
*百済の阿佐王子が日本の聖人に会いたいと願い、太子に会うと恭敬礼拝した。その時、太子は眉間から白い光を放った
*甲斐より献じられた、足の部分だけが白い驪駒(黒駒)を神馬として自らの乗馬とし、舎人の調子麿に飼育を命じる
*太子が驪駒に乗ると、駒はふわりと浮きあがって東方に走り去り、調子麿はそれにつき従って雲の中に消えた
*三日後太子は帰ってきて、富士山、信濃、越前・越中・越後を巡ってきたと言った
*調子麿は、自分は太子に従って普通に走っているつもりだったが、気付くと空中にいたと語った
*地震を予知して奏上した
*新羅が任那を侵犯しているのを聞き、新羅を滅ぼさぬ限り任那の攻撃は止まない、と新羅討伐を進言して出兵させる。
将軍は新羅を降伏させて引き揚げたが、新羅はすぐに任那を侵犯したので、
やはり新羅を滅ぼさぬ限り任那の攻撃は止まないと言った
*第二次新羅討伐軍の総大将である来目皇子が筑紫で病に倒れたのを聞き、
これは新羅が将軍を厭魅(呪詛)したためで、軍は渡海できないだろうと言った。皇子はそのまま亡くなった
*日本に来る知識人はすべて太子の前世の知り合い
*冠位十二階制定
*憲法十七条制定
*秦河勝とともに山城の楓野に赴き、風水を論じて、のちに聖皇(桓武天皇)がこの地を王都(平安京)とするであろうと予言し、
その地に建てた別宮をのちに寺として河勝に賜わった(蜂岡寺。のちの広隆寺)
*飛鳥から20㎞西の斑鳩宮に遷り、毎日驪駒に乗って推古天皇の小墾田宮へ出勤した
*平群や区徳の里を訪れ、のちに帝皇がこれらの地から出現するであろうと予言
*『勝鬘経』の講説が終わった夜に蓮の花が大量に降り、その地に寺を建てた(現在の橘寺)


*前世、衡山で修行していた時に持っていた法華経を小野妹子に取りに行かせる
*妹子は法華経を持ち帰ったが、その経は先方の手違いで弟子の持っていた経であったので、太子は七日七夜夢殿に籠ると、魂を飛ばしてその経を取ってきた
*小野妹子が再び隋に使いして衡山を尋ねた時、太子が前世の姿で青龍の車に乗り、五百人のお供を連れて東方より飛来し、
前世の修行場であった般若台より一巻の経を取り出して飛び去った、という話を聞いた
*この法華経はのち太子の子である山背大兄王も礼拝していたが、丁亥年十月二十三日に忽然と消え失せた
*太子は法華経のスペシャリストだった
*太子は一月に三度夢殿に籠り、出てくると海外の様々な事を論じた。
また経典の注釈もここで行い、行き詰ると東方より金人がやってきて解釈を告げてくれた
*狩猟の風景を見て、仏法の不殺生と儒教の仁は同じ心であるといってそれをやめさせた

*片岡山で飢えた人に逢い、紫の御衣をかけて問答を交わす。
あとで人をやって見させるとその人はすでに死んでいたので、埋葬させた。
蘇我馬子らがその行いをそしったので、その墓を開かせてみると、そこには屍はなく、太子が最初に与えた御衣だけなくなっていた。
太子は残りの衣を取ってこさせ、通常通りに着て暮らした。
*奈良の村に遊び、侍従に語っていうには、
のちに一人の帝皇(聖武天皇)があらわれ、この一帯に伽藍を建てて釈迦の教えを興隆するであろう、
また、この奈良の地は百年後に帝都(平城京)となり、また百年後にさらに北方(平安京)へ遷るであろう、と予言する。
*隋の滅亡と李姓の者の王朝(唐)の勃興を予言する
*妻に、これ以後は平民に転生して仏法を弘めたいと告げる
*三経義疏完成



*自らの因果の報いが未だ終わらず、その災いが子孫に降りかかるため、
自らの墓を築かせると、内部の数か所を断ち切らせて自らの子孫が絶えるようにした
*近江を巡見し、粟津にて、のちに一人の帝王(天智天皇)が都をこの地(近江京)に遷し、十年間世を治めるであろうと予言する
*この時、蒲生川に人魚が現れ、太子はこれを聞いて国の災いの予兆であると告げる
*摂津国から、蒲生川の人魚に似た物が献じられた。太子はこれを憎んで捨てさせた。
*推古天皇二十九年辛巳春二月、妻とともに遷化。その容貌は生きているかのようで芳香を放ち、その遺体は衣服よりも軽かった。
二人は磯長の墓所に葬られた。その墓所にはカササギに似た白い鳥が住み、烏や鳶を追い払ったので、時の人は守墓鳥といった。
この鳥は、埋葬から三年を経ると居なくなった。
*太子の乗馬であった驪駒は太子の薨去後は飲食せず、太子の墓所までついてきて、
太子が埋葬されるのを見届けた後、大きくいなないて一躍し、斃れた。
群臣はその忠心に感じ入り、その屍を中宮寺の南の墓に埋めた。