儚月抄関連の神話とか


戻る


*アマテラスとツクヨミ

『古事記』では、イザナミを失い黄泉国から戻ってきたイザナキが、
筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原で禊をしたときにその両眼から発生した神々。
(なお、『日本書紀』本文では、イザナキとイザナミの二柱によって生み出されている)
南太平洋の島々に分布する神話では「天空神の両眼が日月となった」というモチーフがあり、
イザナキには天空神の属性があったと思われる。
一方、イザナミには地母神属性があったことは、病んで金属神・土神・水神・生産神を生んだことでわかる。
イザナキとイザナミは淡路の海人族を中心に信仰されており、
のちに皇室の神話に取り入れられたという説が有力。

記紀で、この二神と前後して生まれたとされるヒルコは、元来は「日子=ヒルコ」で太陽神もしくはその御子だったらしく、
江戸時代の曲亭馬琴は、これを日神の子として北極星に比定している。
ヒルコが船に乗せて流されるのは貴人流離譚に属するもので、
主に太陽の力を受けて生まれた子が流されたり棄てられるというモチーフは世界各地に見られる。
日本では、金色姫や『小栗判官』の照手姫の話などにそのモチーフが見られるが、
これは古代日本にあったらしい「太陽の船」祭式とも関連しているようだ。

アマテラス・ツクヨミとともに生まれたとされるスサノヲは、元来その位置にいたヒルコを外して割り込ませた存在のようだ。

*アマテラス

アマテラスは皇室の祖神で、日本神話における最高神とされているが、
実は奈良時代まで宮中に祀られていた形跡はない。
皇室に関係が深い祭儀を記している『延喜式』所収の祝詞にもほとんど名前が見えず、
出てきても「伊勢にいます神」としての付加的な出番しかない。
宮中にある神鏡(伊勢神宮の八咫鏡のレプリカとされる)をアマテラスの分身として祀ることが始まったのは平安中期以降で、
即位における最重要儀式である大嘗祭の祭神でもない。
大嘗祭の主要な祭神はタカミムスビノカミであったようで、
実際、『日本書紀』本文では高天原で命令を下すのはアマテラスではなく、もっぱらタカミムスビである。
なので、皇室の本来の祖神・祭神はタカミムスビ(稲作・豊穣の神)であったと思われる。

古代日本では、たとえば福岡の珍敷塚古墳には太陽を載せ舳先に鳥(カラス?)の止まった船が描かれており、
『住吉年代記』では船木連の祖・大田田命が日神を舟に乗せた伝承があり、
また『播磨国風土記』では、天照大神に日向朝戸君が舟を献じた伝説が記されているなど、
太陽と舟とが密接な関連を持っていたらしい。
エジプトでも、太陽は舟に乗って移動する思想があったことが王墓の壁画からわかる。
伊勢神宮はもともとは『磯宮』という名であったと『書記』にあるように、もとは海辺にあったような伝承があり、
アマテラスに捧げられる神饌は海産物が大部分を占める。
また、アマテラスの神体を納めるのは「御船代」と呼ばれるなど海との関連が深く、
古くは伊勢の海人族のローカルな太陽神だったらしい。
伊勢神宮と天皇の宮殿および大嘗祭祭殿の造りは異なり、両者の祭儀における共通点は見られず、
天皇の伊勢行幸は持統天皇のときまでなかった。これにより、もともと皇室とアマテラスは別々の存在であったと思われる。
大和朝廷が大陸の文化を吸収していく過程で「王者は太陽の子である」という思想(朝鮮にある)がもたらされ、
(仁徳天皇を讃える歌にはその思想が見られる)
王権の権威付けのために近畿周辺で信仰されている太陽神を皇室と関連付けようという動きがあり、
その中で伊勢大神が選ばれて皇室に信仰され、時代とともに皇祖神化していったらしい。
伊勢神宮で秘中の秘とされているのは本殿の床下に埋められている「心の御柱」であり、神鏡・八咫鏡よりも重要視されていた。
本来はこの柱に降臨する太陽神・伊勢大神が信仰の対象であり、
八咫鏡はのちに朝廷によって持ち込まれたものという説がある。

アマテラスの性別は、記紀では女神ということで一致している。
世界各地では一般的に太陽神は男神であるが、ゲルマン神話や、中国南部の少数民族の中には太陽神を女神としているところもあり、
とくに日本が特殊なのではない。
だが、後世には伊勢の学者からも「アマテラス男神説」があらわれたように、古代には太陽男神が各地にいた。
『延喜式』神名帳には山城・大和・摂津・丹波・播磨・対馬の諸国に、
天照御魂神(アマテルミタマノカミ)
天照神(アマテルカミ)
天照玉命(アマテルタマノミコト)
などの神が祀られており、多くは男神であったらしい。
伊勢の「アマテラス」も、その名の「テラス」は「テル」の敬語法であり、
伊勢の大神は皇祖神としての敬意を込めて「アマテラス」と呼ばれたが、もともとは「アマテル」であったと思われる。
伊勢には「アマテラスは夜な夜な斎宮の寝所に通って蛇鱗を落としていった」という三輪山伝説のような伝承があり、
これは男神が巫女と神婚を行っていた名残であり、
アマテラスに仕える巫女が神格化され、本来のアマテラスに取って代わって女神となった、と説く学者も多い。

天孫降臨ではサルタヒコが先導をつとめるが、
これも伊勢・志摩地方の古い太陽神で、猿女君の祖先により信仰されていたようだ。
この神は道祖神(境界神)であり、また性神でもあった。

『古事記』などでアマテラスのブレーンとして活躍し、天孫降臨にも従うヤゴコロオモヒカネノカミは、
タカミムスビの子とされているものの彼と一緒に登場することはなく、いつもアマテラスとともに登場する。
これももともとは伊勢で信仰されていた神であると思われる。

*ツクヨミ

ツクヨミは男性の月神とされる。
『古事記』では誕生したきり出番はないが、
『日本書紀』では、アマテラスの命で食物の神ウケモチのところに赴いたとき、
ウケモチがツクヨミを饗応しようとして口から食物を吐き出していたところを見て
「口から吐いたものを食わせようというのか」と激怒して斬り殺し、
アマテラスの怒りを買って「悪い神め、お前の顔は二度と見たくない」と言われたため、
それ以来日と月は昼夜で別居することになった。
ウケモチの体からはさまざまな穀物や蚕などが生まれ、アマテラスはこれを手に入れて人に与えた云々、
という話が語られる。
これは南太平洋に見られる、
「食用植物の神が殺されてその死体から果樹が生える。
殺される神は月と同一とされるか、これと結びつく存在である」
という「ハイヌウェレ型神話」と共通したモチーフを持っている。
日本では、これに昼夜の起源神話がプラスされている。

『古事記』では、高天原から追放される際のスサノヲが同じような経過でオホゲツヒメを殺し、
カミムスビノカミが種子を得る話になっているが、
スサノヲやカミムスビは出雲神話に縁の深い神であり、オホゲツヒメは国生み神話のところで阿波国の神とされているので、
これは中国地方・瀬戸内海における海人族の伝承にもとづくものかもしれない。

『万葉集』に、
「・・・月よみの 持たる変若(をち)水 い取りきて・・・」
という歌があるように、月にはその満ち欠けが生と死の反復を連想させることから、不老不死・若返りの信仰があった。
また、それが転じて「死の起源」も月に求める神話も南方に見られ、沖縄にもそういった伝説がある。
「アサリヤザガマという男が、人間に若水、動物に死水を浴びせるよう月神より命令されるが、
若水の桶は蛇によってこぼされてしまい、結局人も動物も死水を浴びることとなった。
これにより蛇は若返り、人や動物は死すべき存在となった。
男は月神の怒りにより、永久に月で桶を担いで立っている。月の影はこの姿である」
しかし特別な日には若水が空からもたらされ、井戸から水を汲んで飲むことで若返ることができる、という信仰があり、
これが正月の「若水行事」に残っている。
中国にも、嫦娥が仙薬を持って月に逃亡したという伝説がある。

ツクヨミとは「月を読む」つまり「暦を数える」という意味で、
農事・暦の管轄者であり、農民に祀られる存在であった。
旧暦八月十五日には稲の穂かけを行ったり、またサトイモを供える「芋名月」という行事もあり、
農業と月との関連が農事にうかがわれる。

『日本書紀』顕宗紀三年の記事に、
「月神が人に憑いて『わが神地を定めよ』と神託を行い、
壱岐県主の祖・押見宿禰が山城の地に月神を祀った」という記事がある。
これは山城国葛野郡の式内社・月読神社のことで、
『山城国風土記逸文』では、ウケモチのもとを訪ねるツクヨミが桂の樹に降り立ったとあり、
これが桂の地名の由来としている。
この周辺は渡来人・秦氏の根拠地で、月と桂の関係は中国神仙思想にもとづいている。
ここで祀られた「月神」というのは、壱岐氏が祀っていた月神で、
『先代旧事本紀』では壱岐県主の祖神は「天月神命(アメノツキミタマノミコト)」とされているので、
この神を山城国に勧請したようだ。
壱岐氏は宮廷の亀卜を司る卜部の家柄であり、この月神は亀卜、占いを司る神であった。
今では月神はツクヨミで統一されているが、昔は各地でいろいろな月神が祀られており、
『延喜式』神名帳には丹波国桑田郡には小川月神社、
出羽国飽海郡には月山神社の名があり、
『日本三代実録』(日本国六番目の正史、「六国史」のラスト)には、出雲の女月神(メツキノカミ)に位階授与の記事がある。
この神は月の女神だったようだ。

アマテラスと同じく、ツクヨミも海と深い関係がある。
『古事記』では「夜の食す国」の統治を任されたとあるが、
『日本書紀』の一書では「滄海原の潮の八百重」の統治を命ぜられている。
そして伊勢には月神の社が多く、
たとえば多気郡の式内社・魚海(うおみ)神社の祭神はツクヨミとトヨタマヒコ(トヨタマビメの父、海神)であり、
社殿は船の形をしている。海人たちの信仰の対象であったことがうかがえる。
また、伊勢神宮には内宮・外宮それぞれにツクヨミを祀る別宮がある。

*付:星の神

日本神話には星の神話が少ない。
『日本書紀』には、国譲りの段で、星神カカセオをタケハヅチ(機織の神)が誅し、
別伝として、フツヌシとタケミカヅチが天空のアマツミカホシ(別名アメノカカセオ)を征伐してから天下ると発言した、
それくらいしか記述がない。
『旧事本紀』では、物部氏の祖ニギハヤヒが天下る際に従った神のうちに「天の赤星」がおり、
『皇大神宮儀式帳』には天須婆留女命(アメノスバルメノミコト)須麻留女神(スマルメノカミ)の名が見える。

なぜ少ないかというと、
*もともと少ない星についての話を『記紀』の神話構成上、採録する必要があまりなかった
*古い時代には星への関心はあまりなかった
ことが挙げられる。
星の神話が多い地域は天文学・占星術が発達した地域であり、
絢爛たる星座の神話を持つギリシア神話においても、ホメロスやヘシオドスの時代には星の神話はほとんど語られない。
ギリシア神話で星と神の関連について語られだすのは、
バビロニアに起源を発した天文学・占星術がアレクサンドロス大王の東征によりギリシア文化圏に伝わってからである。
そういった地域でない限り、星の神話は生まれにくい。
せいぜい、明るい惑星やスバル・オリオンの三ツ星などの目立つ星、
農耕や漁業・航海で目印になる星について語られる程度である。
日本神話の源流ともいえる南太平洋の島々にも星の神話はほとんどない。
日本の人々が星に関心を持つようになるのは大陸から暦法・天文遁甲などの学問が輸入された飛鳥時代以降であり、
それ以前に星についての神話が生まれる余地はほとんどなかった、という見解が一般的のようだ。