「はっ!?」 私はとっさに前へ跳び、向き直った。 “シャー” そこには、手足が細く異常に長い異形の人間が蜘蛛のように這いつくばっていた。「土蜘蛛」だ。『天孫降臨』の事件においては、死者に取りついた人形のもの、そして「生命の種子」に蟲など何らかの生物が合成されて生まれた多脚のものを見た。今見ているものは人間の形をしており、何者かの体を奪ったものだろう。異形のものは、人の姿を求めるのだ。 「土蜘蛛・・・」 私は後ずさった。 “ここで私が黙っていれば、七石の事を知る人間は・・・” その時、「彼女」がそんなことを言い出したので私は青ざめた。 「それは約束が違う!“我が御世の事、能(よ)くこそ神(かむ)習はめ”と言うではないか・・・!」 これは『古事記』の応神天皇記に収録された神話にある言葉である。但馬国一宮の出石大神(いずしのおおかみ)の姫神へ兄弟二柱の神が賭けをして求婚した際、弟が賭けに勝ったにも関わらず兄が賭けの償いを支払わなかったために二柱の母神が怒って発した言葉であり、「神の世の事は神の行いに習うべきだ」という意味で、続いて「又うつしき青人草(あをひとくさ)習へや、其の物償はぬ(なのにおまえは現世の人間の行いに習ったのか、賭けの物を償わないとは)」とあり、「人は嘘をつくが、神は決して嘘をつかない」という信仰をあらわしている。 “言われると思った・・・” 「ゲロ」 「彼女」は苦笑いしたようだ。次の瞬間、凄まじい威圧感が蛙から発せられ、私は棒立ちになって硬直した。 “土蜘蛛よ控えよ・・・この我に刃向うや否や・・・” 途端、その土蜘蛛は悲鳴のような声を上げると後方へ飛びずさり、べったりと地面にひれ伏した。 “この地より立ち去れ・・・去らずば滅ぼす・・・・・・” 「彼女」の言葉とともに土蜘蛛の周囲の地面がどす黒く変色し、小さく波打ち始める。 “ギ・・・ギ・・・” 土蜘蛛は逡巡していたが、きっとこちらを向くと、 “ギィッ!” と跳びかかろうとした・・・瞬間、その黒い地面から一斉に触手のようなものが飛び出して土蜘蛛をがんじがらめに捕らえ、そのままその全身に突き刺さるや、凄まじい勢いで体を食い破っていった。 “ギャアアアアア・・・・!” 土蜘蛛の悲鳴は、飯島の上げていたものと同じだった。 ボギボギボギ・・・グチュグチュ・・・ペキパキ・・・ゴブッ・・・ やがて土蜘蛛の体はすっかり消えてなくなってしまい、その黒いものはまた地面に消えていった。そして後には何も残らなかった。 “私の威しがきかないとは、もう歳かなあ。まあ、あの子たちへのごちそうになったし、いいか” 蛙は快活にケロケロと笑ったが、私は恐るべきものが肩に載っている感覚に冷や汗が止まらなかった。やはり、「彼女」の機嫌を損ねることはそのまま死を意味するようだ。 “ああ、そうそう。私の事は美加ちゃんにも、早苗にも秘密だからね” 「・・・早苗くんにも?君はこの神社に関わる存在では・・・」 “ひ・み・つ、って言ったでしょう?まああの子たちに食べられたいなら、話せばいいわ。人は美味しいから、ゆっくりじっくり味わいながら食べるでしょうね” 「・・・わかった。まだ死にたくない」 “よろしい・・・あっ!” その時、彼女がいきなり頓狂な声を上げた。 “あいつ・・・まさか・・・・・早苗に何をさせる気なのよ!” 「えっ」 “急いであそこへ向かいなさい。美加ちゃんがどうなってもいいのなら別だけど” 「どういうことだ!?」 “説明は後。とにかく急げ。私はあなたを守ると言った以上、あなたの側を離れられない” 「しかし、私ももう歳・・・」 “つべこべいわずに走れー!” 蛙がぴょんと跳んだ、それと同時に私の体が見えない力で前へぐいっと引っ張られ、その先で蛙は私の肩に着地した。蛙はまた跳ね、私は再び蛙が跳躍した分前へ引っ張られ、その先で蛙がまた着肩。 (こういうやつが、何かの漫画であったな・・・) そう思うのがやっとだった。私は見えない恐るべき力にぐいぐい引っ張られながら山を駆け下りていくことになった。 |
(以下は、美加からの聞き書きである。前に早苗が主体となった段があったが、それもさらに後、東風谷早苗から聞いたことである)) 「私は、小さい時から次代の風祝として育てられました」 と早苗は言った。「風祝は成人して子をなすとその職を退き、風祝家を総領する慣わしでした。ですから風祝は祭祀については知っているのですが、家の詳しい歴史などについてはあまり知りません。もっとも、父母が生きていればそういうものを聞く機会があったのでしょうけど・・・」 「御両親はもう・・・?」 美加が訊くと、早苗はうなずいた。 「はい。三年前に・・・」 「そう・・・」 早苗が何も言わなかったので、美加もそれ以上訊かなかった。 「分家とかはないの?古い家柄なら、多いのでは?」 「そういった家は祭祀の断片は知っていますが、祭祀の秘義や家の歴史についての伝授は受けていません。ですから、ほとんど何も知りません。今では分家筋もみな村を出て行ってしまいました」 「村を出て・・・じゃあ祭りの手伝いもしないの?」 「何でも本家と分家筋の間には絶対的な格差があったそうで・・・昔はともかく、今はもうそういう事が嫌われる時代ですから・・・」 「なら、早苗さんは一人で神社を支えてるの?」 「いえ、村の氏子さん方が支えて下さってます。私一人では、何もできません。神社は、多くの人の信仰があって成り立っているのです。私だって、村の皆さんからいただくお米や野菜がなかったら、生きていけません」 「高校をやめてアルバイト、それに毎日のお祭りを続けるなんて・・・」 美加は想像してみて、「あたしにはとてもできそうにない。早苗さんは凄いわ」 と言った。 「・・・ありがとうございます。でも・・・」 早苗は淋しそうに笑って、「テレビとか見ていたら、私もあんな風に、同い年の人といっしょに、勉強して、遊んで、お洒落して・・・」 声が少し震えた。見ると、彼女の眼に涙が浮かんでいる。 「早苗さん・・・」 やはり年頃の少女なのだ。いくら家の定めであるといっても、賑やかな学生生活にあこがれないわけがない。 日頃抑えていた本心を吐露してしまったせいか、感情が止まらなくなってしまったようで、早苗はぼろぼろと涙を流し始めた。 「不満は・・・ないんです・・・みんな・・・私に良くしてくださるんです・・・だから・・・こんな事を考えていてはいけないんです・・・」 首を振りながら、今言った事を否定しようとする。氏子からの奉仕や厚意を一身に受ける身として個人的な感情は表に出せず、そしてそれを抱くことにも後ろめたさを感じているのだろう。だが、今早苗が担っている事のほとんどは総領としての父母が担うものだったはずだ。今は彼女が風祝として祭祀を掌り、さらに総領として家をも支えなくてはならない。普通の家ならまだしも、東風谷の家は悠久の歴史を持つ神祭りの血筋だ。しかもこの世知辛い不況の時勢・・・それはまだ十代の少女には重すぎると言わざるを得ない。 美加は立ち上がって、早苗の後ろに回ってひざまづくと、ぎゅっと早苗を抱きしめた。 「美加・・・さん・・・!?」 「早苗さん、いいのよ。女の子は誰だってそう考えるものだから」 美加は優しく語りかけた。「あなたがそう考えるのは当たり前の事。それを抑える必要はないわ。外で吐き出すことができないのなら、今、ここで全部吐き出しなさい。私が全部聞いてあげるわ」 美加の語りかけに、 「美加さん・・・美加さん・・・・!!」 早苗は彼女の名を呼んだと思うと、激しく泣き始めた。 「ありがとうございました、美加さん!」 やがて泣き止んだ早苗はケロリとし、笑顔で美加にお辞儀していた。今までは明るく振舞っていてもどことなく陰があったが、憑き物が落ちたようにその陰がなくなった。恐らく今まで心に溜め込んでいたものを吐き出したせいだろう。 「楽になったみたいね」 自座に戻っていた美加はほっとして、「もっと人を頼っていいのよ。助け合うのが人間なんだから。何か悩みがあったら、何でも相談して。同じ女として、話に乗るわ」 「はい」 早苗はにっこりと笑って、「なんだかお姉さんができたみたいです」 と言った。 「お姉さんって呼んでもいいのよ?」 と美加が言ってみると、早苗はくすりと笑って、少し首をかしげ、 「これから頼っていいの、おねえちゃん?」 と言った。 「ま・か・せ・な・さい!」 「あはははは!頼もしいです!」 美加は二人兄妹の妹であったので、姉と呼ばれたことに何とも言えぬ優越感を感じた。それにしても、早苗も素では悪乗りするタイプのようだ。 女性同士の心の機微はよくわからないがそんなこんなで二人は仲良くなり、いろいろと話をした。早苗はこの村に伝わる色々な伝承を話して聞かせたが、本人もよくわかっていないようだった。 ひとしきり話をしたのち、早苗は唐突に、 「生命の木って、どんな形をしているんですか?」 と訊いてきた。 「生命の木・・・」 美加は首をかしげて、 「私も木自体は見たことがないわ。種子は見たことがある」 と答えた。 「どんなものなのですか?」 「何ていうか・・・輝く巨大なクルミの実・・・って言えばいいのかしら。その周囲に無数の小さい花が咲いていて、それがまた小さな種子を生む。それは物や生物に作用して、新しい生物を生みだしたり、私みたいに生き返ったり・・・」 「そうですか・・・」 「それがどうかした?」 「ちょっと・・・見ていただきたいところがあるのですが・・・」 |
早苗と美加は、集落の南外れへとやってきていた。 「この辺りは家がないのね」 と美加が言うと、 「昔は、ここに風祝の住む神殿(ごうどの)があったといわれていて、村の禁足地になってます」 と早苗が答えた。 「こんな外れの所に?」 「左を見てください」 早苗の言葉に左を見ると、正面に大池があり、その直線上に東の峠が見えた。 「春分と秋分の日の太陽はあの峠から登るということで、その直線上にあたるこの辺りは聖なる地になっていたようです。この辺りの田んぼは、神様にたてまつる御神饌を育てる神田だったようです」 「ふうん・・・どうして今のところに移っちゃったの?」 「そこまでは・・・わかりません」 歩いてゆくと、そこには広い敷地があった。田畑とは違う、屋敷跡のようだ。所々に礎石が見える。 「ここが神殿跡です」 と早苗。 「ここに何があるの?」 「美加さんの仰っていた生命の木・・・そのようなものがここにもあるのです」 「えっ!?」 「さっきお話しした“三木七石”・・・古い形では“四木六石”で、守矢の社には“照木”があったといいます。それが、この神殿の地にあったと、小さい時に祖父から聞かされたのですが・・・ひょっとすると、それが美加さんの仰っていた生命の木なのではないかと」 「そんなものがここに・・・」 「私も、神社の事で教えられていないことがたくさんあります。それをもっと知りたいんです・・・」 「・・・」 美加は屋敷跡を見回した。 屋敷のはずれに木々の茂った所があり、そこから何かの力を感じる。 (この感じ・・・!) 「生命の種子」の感じに近い。この近くにあるというのか。 美加はそちらの方に歩いて行った。 「美加さん・・・!」 早苗が声をかける。 「こっちから何かを感じるわ」 美加は茂みの方に歩いて行った。 「あぁ・・・っ・・・!」 背後から、早苗の声にならない声がかすかに聞こえた。 同時に、茂みが激しい音を立て、藁作りの巨大な蛇がぐわっと鎌首をもたげて立ち上がった。 「きゃあああ!」 思いもかけない光景に、美加は絶叫して硬直した。 藁の大蛇は美加を認めると、何の躊躇もなくがばっと美加に覆いかぶさった。 (つづく) |