んん?どうしたんだい、あんた。こんなところでうろうろしちゃって。
三途の川はこっち。さっさとこの世の未練は断って、彼岸へ行こうじゃないか。
…ってあれ、引き返すのかい?
見たところけっこう年いってるみたいだけど、まだやり残したことでもあるのかい。
それとも、不慮の事故かなんかで死んでも死に切れないのかい。
ねえ、人の話くらい聞いてくれよ、せっかく話しかけてるんだからさ。
やっぱり帰るのかい。帰る体はまだあるんだろうね。
ふうん、今朝死んだばかり?じゃあ今日の晩に通夜で明日の昼に葬儀だね。
もうすぐ夕暮れだ。ま、明日の昼までは火葬になることはないだろうさ。
でも、亡骸は魂が抜けると急速にだめになっていくからねえ、
早く帰らないと、生き返ってもまともな生活ができなくなるかもしれないな。
お、慌てだしたね。でも、魂だけじゃまだ自由に動けないだろう?
この小町さんが送っていってやるから、道中ゆるゆると訳でも聞かせてくれよ。
ほら、この鎌に止まりな。刃には近づくなよ、魂といえど真っ二つだからね。
お礼はいいよ、まあ暇だったからさ。じゃ、行こうか。


……はあ、で、話をまとめるとこういうことかい?
あんたにはひとり娘がいて、それが立派な男と結ばれるまでは死んでも死にきれない、と。
で、今、娘さんはたいして財産もない男にしつこく言い寄られていて、
それを何としてでも遠ざけなければいけない、と。
ま、そりゃあ、嫁入り前の大切なひとり娘を残しちゃあ、死にきれないよねえ。
娘さんはいくつ?二十二かい。あんたの奥さんは?え、もう二年前に亡くなってるのか。
えーと、渡したかねえ・・・まあいいや、そりゃあ残された娘さんは大変だろうね。
だからあんたは何としても生き返りたい、と。うん、よーくわかる話だ。
お、あんたの家に着いたみたいだ。葬礼の用意がされてるね。
ああ、あたいたちの姿は見えないし、声も聞こえないから、何を話しても大丈夫だよ。
娘さんがびっくりして死んでしまうこともない。
近所の人たちが娘さんをなぐさめているね。おや、若い男がいる。
彼があんたの言ってる男かい?へえ、そうなんだ。
体もしっかりしてるし、顔立ちも芯が通ってるし、なかなかいい男じゃないか?
娘さんや近所の方々とも親しそうだ。
…わかったわかった、そういきり立ちなさんな。
なにかあの男に性格的に欠点でもあるのかい?
お金がない?そりゃあ家の事で、あの男のせいでもあるまい。
あの手、相当使い込んでる。なにか手に職があるんだろう。
いい具合に日焼けもしてるし、貧乏ながらも勤勉に働いてるんじゃないか。
財産を食いつぶしそうな道楽者には見えないねえ。
それに…この家だって、そんなにお金がありそうには見えないね。
いや、昔はあったけど、今はそうじゃない、といったほうがいいかな?
この家の造り、かなりしっかりしているし、部屋数も多い。
そんなに古くないから、そう昔でもない時期に建替えしたんだろう。
そのころはお金があったってことだ。
でも、今は…掃除はされてるけど、古くなった家具や調度で、
取り替えてしかるべきものがそうなってない。
つまり今はお金がないということだ。これはどうしたわけだろうねえ…
何をうろたえてるのかな?話を続けようか。


さあ、炊事場に来たよ。空の酒瓶が多いね。それに、割れた食器もある。
これだけのお酒、誰が飲んでいたのかな?あの娘さんかい?
そうじゃないよね。
あの男?いや、あんたはあの男を嫌っているから、家に入れて酒を飲ませるはずもない。
それとも彼はあんたのいない間に勝手に上がりこんで飲み食いする奴なんだろうか?
…まあ私の知ってる奴にそんなのもいるけど、
もしそんなひどい奴なら、近所の者がああ親しげにするはずがない。
ならばあんたの知り合いがこの家に集まって頻繁に飲み食いしていた?
いいや、ここにそれだけの食器はない。
つまり、これだけの量、あんたが一人で飲んでたんだ。
これだけ飲んでりゃ、あんたの体はぼろぼろだろうね。中毒だ。
あの娘さん、うまく隠してはいたけど体にあざがいくつかあった。
酒が切れたあんたが暴力を振るったんだ。
家の事も顧みず酒に溺れるとはね。
あんたが娘さんとあの男との結婚を嫌ったのは、
あちらにお金がないと、大好きなお酒を飲む余裕がさらになくなると思ったからだろう?
ほら、自分の体の近くに来たからあんたの魂も生前の姿に近くなってきたよ。
ひどい顔だね。不摂生もここまで来れば立派なもんだ。まるで妖怪だよ。
…おっと、怒るなよ、本当のことを言われたくらいで。
ほい、襲いかかっても無駄だ。魂はあたいには逆らえない。
ほら、動けないだろう。この鎌で真っ二つにしてやろうか?ええ?
そうそう、おとなしくしてな。


さて、あんた、生き返りたいというのは、
娘のことよりもお酒が飲みたい一心じゃあないのかい?
違う?そうかねえ。あんたが死んでしまえば、
あの男が財産持ってようが持っていまいが関係ないじゃないか。
あの二人の問題だからね。
あんたは酒の妄執に取りつかれてここまで戻ってきたのさ。
餓鬼と一緒だよ。浅ましいことだ。この分じゃ、三途の川までも来れないだろうね。
永遠にこの世をさまよいながら、渇いた喉を潤そうと、
もはや飲めもしない酒を求めて苦しみもがくんだ。
それは地獄での責め苦を受けるよりつらいことさ。
あちらは罪が償われるまでだけど、こっちは永遠、だからね。
ああ、生き返るのは無理だよ。亡骸を見たけど、あんた、頭を強く打ってたね。
おおかた、酔っ払ってふらついているうちに転んで頭を打ったんだろう。
あれじゃ、もう帰れないよ。
お、震え始めたね。でも、もうどうしようもないことさ。
あんたはもうこの天地に一人ぼっち。誰も助けてくれない。
たったひとりで、永遠にこの地上をさまようんだ。苦しみながらね。
ああ、いくら泣いてもしょうがないよ。
何とかしてくれって?と言われてもね…
あたいの仕事は三途の川の渡し守。あんたが渡し賃を持っていれば、
渡してあげられるけど……持ってる?
……ないみたいだね。それがあんたの生前に積んだ魂の富さ。
いくらあたいが慈悲深くとも、渡し賃を持っていない奴は通せないね。
そこを何とか?だめだよ。これは決まりなのさ。
此岸と同じく、彼岸にも決まりがある。それは覆せない。
生きているうちからそういうことも考えておくべきだったね。
まあ、今となっちゃあもう遅いけどさ。あきらめな…
……おや?あんたの懐から何か落ちたよ?
それは銭じゃないのかい?
へえ、さっきまではなかったって?ふうん…
ちょっとさっきのところに戻ってみようか。


……ああ、見なよ。娘さん、霊前であんなに一生懸命拝んでいるよ。
心の中がわかるかい?
お父さんが無事成仏できますようにって、一心に祈っているよ。
かなりひどいこともされたろうに、それでもあんたのために祈っているんだ。
どんな人間であろうと、自分をこの世に出して、ここまで育ててくれた父親だからね…
ほら、また銭が増えた。
あの娘の祈りに応じて銭が増えているんだ。
おや、あんた、泣いているね。そう、あれだけひどいことをされてなお祈ってくれる、
本当にいい娘さ。そう、心から謝らなきゃならない。
…でも、それにも限度がある。この一時の祈りで、
それまでやってきたことがチャラになるわけじゃない。たぶんまだ足りないはずさ。
え、もういいって?自分のしてきたことを全部思い出した、
その結果がこれなら仕方ない、あの娘が祈ってくれたのだけでもう充分だって?
うん、素直になったようだね。
そこでこの小町さんはとあることを思い出したんだけど…聞きたいかい?
まあ、一応聞いておくれよ。
何年か前、ある女の魂を彼岸へ送ってやったときのことなんだけどね。
その女は、生前によほど善行を積んだようで、かなりの銭を持って渡しまでやってきた。
あっという間に彼岸まで渡れるような、それだけの金額だったよ。
これは仕事が楽だと思ったけど、その女は言ったのさ。
「私はかわいい一人娘と、酒に溺れた夫を残してここへ来てしまいました。
娘はよい子ですが、夫は、昔は働き者でしたが体を壊してからは酒に溺れるようになり、
今では酒が切れると私や娘に乱暴するようにまでなってしまいました。
その事がこの期に及んでもなお気にかかって……
娘はともかく、夫はあの調子ではきっとそう長くないでしょう。
もしここへ来たとき、ひょっとしたら渡し賃が足りないかもしれません。
その時は、この私の銭を、川を渡れるだけ分け与えていただけませんでしょうか。
お聞き届けいただけなければ、私はこの舟に乗りません」
ってね。
ほら、これがその時の銭だ。今のと合わせれば、充分に三途の川を渡れるよ。
いい奥さんと娘さんに恵まれたもんだ。
あんたも、今はそんなだけれど、昔はいい人だったんだろうね。
家族からそれだけ気にかけてもらえるってことはさ。
…ああ、泣いていいよ。気がすむまで泣きな。それまで待ってやるからさ……


もういいかい?気持ちの整理はついたかい?
ずいぶんと晴れ晴れとした顔になったね。いい感じだ。
お客さんも、陰気なのより晴れやかなほうが漕いでいて楽しいからね。
え?人の銭を他人に渡したりして、あたいが咎められるんじゃないかって?
まあ、あたいは日常茶飯事で怒られてるから、今さらどうってことないさ。
気にしなくていいよ。
一人しか彼岸に行けないより、二人行けるほうがよりいいじゃないか。
うちの閻魔様は杓子定規だから、あんたの人生を公平に見て判決を出すと思う。
厳しめの判決が下るかもしれないけれど、
奥さんと娘さんのことを思って、まじめに罪を償うんだ。
彼女たちの気持ちを無にするんじゃないよ。
それじゃあ、行こうか。
外は浄闇、霊が渡るにはほどよい空気だ・・・・・・



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