深い山の中を、少女と少年がとぼとぼ歩いていた。どこからか滑落したらしく、その衣服は汚れすり切れており、より年少に見える少年は泣きべそをかいている。
 二人の周囲は鬱蒼とした森で陽の光もあまりささず、落ち枝や落ち葉が積もり重なって足元も悪い、大人でも歩くのに難儀な所だった。
 少年は少女を見上げて言った。
 「お姉ちゃん・・・疲れたよ・・・」
 その少女――姉はそれを叱るように、
 「だめ!こんなところで日が暮れちゃったら、それこそ帰れなくなるわ」
 と答えた。 
 二人は親や友達と一緒に山へ筍採りに来ていたのだが、弟が好奇心を出して山奥のほうへと踏み込んでしまい、ついには足を滑らせて斜面を滑り落ちそうになったところを姉が助けようとしたが力及ばず、ともに崖下へ滑落していた。幸い二人に大きな怪我はなかったので早速帰る道を探し始めたのだが、ともにまだ年幼いため見通しもきかず、足場の悪さも手伝ってそれは思うに任せなかった。
 「怖いよ・・・」
 弟は姉の衣服の裾をぎゅっと握った。
 「大丈夫。わたしがついているから・・・」
 姉は弟の手をしっかりと握ってそう言いかけると、ふと顔を上げた。
 「どうしたの?」
 弟の声に、姉はうれしそうに言った。
 「聞こえるわ・・・水の音が!」
 「水?」
 「おばあちゃんが言ってたわ。山の中で道に迷ったら川を探しなさいって。川をたどれば、絶対に里のほうへ戻れるからって!」
 「本当!?」
 「おばあちゃんはうそは言わないわ。助かるのよ!」
 「よかった・・・」
 弟はほっとしたように一息ついたが、安心して疲れがどっと出てしまったのか、その場にしゃがみ込んでしまった。
 「大丈夫!?」
 「う・・・うん・・・」
 何とか立ち上がる。
 「川へ出てもまだ山を降りないといけないんだから。つらいけどがんばるのよ」
 「うん・・・」
 二人はまた歩き出した。ふと、姉が弟のほうを見て言った。
 「ただ歩いてるだけじゃ疲れると思うから、何かお話でもしましょうか」
 「うん」
 「じゃあ、おばあちゃんから聞いた話をしてあげるね。おばあちゃんのそのまたおばあちゃんのときの話らしいんだけど・・・あれ、そのまたおばあちゃんだったかな?・・・まあいいや、昔々のお話で」
 姉は、弟の気を紛らすために祖母から聞いた昔話を語り始めた。


おばあちゃんのおばあちゃんが・・・って面倒ね。おばあちゃんって言うことにするわ。
 昔、おばあちゃんがおじいちゃんと一緒に山の近くで何日も畑仕事をしていたんだけど、何日かしてからどこからか狼さんの鳴き声が聞こえてきたの。それが三日三晩続いたから、おばあちゃんは、これは何かあると思って山へ入っていったわ。おじいちゃんも驚いてあとを追いかけていったんだけど。
 
そうしたら、山境の大きな木の下に、一匹の狼さんが倒れていたの。傷だらけで、口の上のほうには何かの骨が突き刺さってて、血を流しながら弱々しく鳴いていて・・・そう、かわいそうだよね。助けてあげなきゃね。
 
おじいちゃんとおばあちゃんもそう思って、持ってきた鍬を狼さんに噛ませて・・・これは骨を抜くときの痛いのをがまんするためだって・・・それから突き刺さっている骨を抜いてあげて、それからいつも持っていた薬草で傷の手当てをしてあげたの。そうしたら、しばらくして狼さんはようやく立ち上がって、よろよろと山のほうへと帰っていったわ。
 
それからしばらくして秋になって、畑の野菜も出来はじめたんだけど、毎年この頃は山から鹿や猪や兎が下りてきて畑を荒らしたりするの。でも、おばあさんの畑はぜんぜん大丈夫で、ほかの畑が荒らされても、その畑だけは無事だったの。これはどういうことだろうって里の人が見張ってみたら、一匹の狼さんがおばあちゃんの畑の周りにいて、入ってこようとする猪たちを全部追い払ってたのよ・・・そう、あの狼さんが助けてくれたお礼をしてたのね。
 おばあちゃんは、これはお礼をしないといけないっていうんで、収穫が終わってから肉を買って、狼さんを助けた木のところに行ったわ。そして木の下に肉を置いてお礼の言葉を言ったら、狼さんがやってきて、そのお肉をくわえていったの。
 次の年になって、おばあちゃんたちが畑を耕していたら、畑に大きな鹿が飛び込んできたの。そのあとを狼さんが追いかけてきて、狼さんは川の方へ鹿を追い立てていった。おじいちゃんはぴんときて、これは狼さんが自分たちに鹿をくれるつもりだと言ってあとをついていったの。そうしたらそのとおり河原にさっきの大きな鹿が倒れていたわ。狼さんはいなかったけど、おじいちゃんはちゃんとお礼を言って、脚を一本残して鹿を持ち帰ったの。全部取っちゃったらよくばりだし、狼さんにもお礼をしなくちゃね。大きな鹿だったから、その肉は夏場まで食べ切れなかったそうよ。

「・・・それからも、狼さんは目に見えるところや見えないところでおばあちゃんのおばあちゃんたちを助けてくれたそうよ・・・狼さんだってそうなんだから、わたしたちもちゃんと人助けしなくちゃね。ってお話」
 弟は疲れを忘れたような元気な声で言った。
 「いい狼さんだね!狼って怖い感じだけど・・・」
 姉は微笑んで、
 「狼さんだって、恩を受ければ返すものだっておばあちゃんが言ってたわ」
 「・・・今のぼくたちも助けてくれればいいのに」
 「いや、もう生きてないって」
 「あ、そうか、昔の話だったっけ・・・あ、川の音が」
 「大きくなってきたわね!」
 二人は足を速めた。そしてほどなく、渓流の淵近くに出てくる。狭い川で流れもそれほど速くなく、下流に滝などもないようだった。これを伝っていけば山から出られるだろう。
 「やったあ!」
 姉は声を上げた。「これを伝って山を降りよう」
 「うん!」
 「その前に、水飲もうか」
 「うん」
 二人は川に下り、まず汚れた足を洗い、それから水を飲もうとした。
 「・・・・?」
 その時、視界の端で何かが動いた。
 見ると、淵のほうで何か黒いものがもぞもぞと蠢いている。山の中の瘴気がこの淵に集まって凝り固まったものだろうか、はっきりしない形で水の上を漂っていた。
 「うわっ!何あれ」
 弟が叫ぶ。それに反応したか、その「物」は二人向け水の上を這い寄ってきた。
 「逃げよう!」
 姉が弟の背中を叩いて先に行かせる。
 二人は川沿いを必死になって逃げる。しかし「物」は川の流れに乗ってどんどん追いついてくる。
 「お姉ちゃん、早く!」
 「後ろ向いちゃだめ!走って・・・」
 そこまで言ったとき、姉の脚に何かが絡まり、彼女は転倒した。見ると、その脚に「物」から伸びた黒い触手が巻きついている。
 「お姉ちゃん!」
 「逃げて!あんたまで捕まるよ!」
 「でも・・・!」
 「物」がどんどん迫ってくる。弟は手近にある石をめったやたらに投げつけたが、効果はない。そして、「物」は姉に接近するやぐぐぐっと屹立し、一気に覆いかぶさろうとした。
 弟は絶叫した。
 「お姉ちゃん!」
 姉は弟を見て叫んだ。
 「私はいいから、逃げて!」
 「物」が姉の上に覆いかぶさる。
 ―――と見えたとき、凄まじい突風が吹きつけ、川の水が轟音を上げ宙に舞い散った。


 弟は全身に水を浴びて目を白黒させたが、姉がどうなったかと目を凝らした。
 と、目の前に姉がへたり込んでいた。
 「お姉ちゃん!」
 「あ・・・あれ・・・?」
 姉は何がなんだかわからず目を白黒させている。「いったい何・・・・が!?」
 そして、自分の前にいる者に気がついた。
 そこには一人の娘が立っていた。
 頭に赤い兜金を被り、山伏のような白い衣に紅色鮮やかなスカートをつけ、足には高下駄を履いた凛とした顔立ちの銀髪の娘で、右手には大刀、左手には円盾を持っている。




 彼女はこちらを向くと、離れていろという風にあごを小さくしゃくった。二人はこくこくとうなずいて下流のほうへと後ずさる。
 「物」は、その娘のほうへとじわじわにじり寄ってきた。そして触手を伸ばす。娘はそれを大刀で切り払ったが、それは再び本体へと還って一体となり、今度は一斉に何本もの触手を伸ばしてきた。
 だが娘は大刀を振りかぶると、一気にそれらすべてを切り払う。
 「すごい!」
 弟が声を上げる。「お姉ちゃん、あの人誰!?」
 「わ、わからないよ!」
 娘が「物」向け斬撃の体勢に入る。しかし、今しがた切り払った触手たちが空中で合体して一本の縄のようになり、娘の背後から不意に襲いかかってその四肢を縛り上げた。
 「あっ!」
 弟の顔がこわばる。
 「・・・・!」
 娘は苦悶の表情を浮かべた。ものすごい力のようで、大刀と盾を握っている手がぶるぶると震え、ついにそれらを取り落とす。そこへ「物」がにじり寄ってきた。
 「危ない!」
 姉が声を上げる。「がんばって!」
 「がんばれ!」
 弟も叫んだ。「負けるなーーー!」
 「おおおおおおおお!」
 その時、娘が咆えた。甲高くてよく通る、まるで――狼のような。同時にその周囲にいくつもの光の弾が現れ、黒い縄を焼ききると「物」めがけ渦のように襲いかかり、後方へと吹き飛ばした。
 娘は大刀を拾うとそのままの低い体勢から一気に踏み込み、
 「斬」
 と小さく掛け声を発するや「物」めがけ飛びかかった。するとその体が空中でいきなり三体に分身し、そのまま突風とともに「物」の体を切り裂く。
 「物」は四つに輪切りにされ、べちゃりと地に伏した。
 「すごい!」
 弟が快哉を叫ぶ。
 しかし、斬られた「物」はぶるぶると震えながら再び合体しようとした。
 娘は着地するや、
 「撃」
 と声をかけて飛び上がった。そして空中で「物」めがけ後回転するや伸身、錐のように身をひねりながら急降下し「物」に両足での蹴りを叩き込む。
 どおん、という轟音とともに「物」がばらばらに飛び散った。
 「わ・・・!」
 姉が口に手をやって驚く。
 「すげえ!」
 弟も両手をぐっと握って叫んだ。
 しかし、まだ終わってはいなかった。近くにあった比較的大きな塊が寄り合ってひとつになり、体を再構成しようとする。だがその時すでに、娘は三たび地を蹴っていた。
 「絶!」
 娘は両手で大刀を振りかぶるや、ぶんと前方に振り下ろす勢いで激しく回転、一直線に急降下するとそのまま「物」に体当たりした。轟音とともにその辺りのものが周辺に飛び散る。
 「危ない!」
 姉弟も地に伏し、音がおさまるまでそのままにしていた。
 しばらくして音がおさまると、二人は起き上がった。あの黒い「物」は消えてなくなっていた
 娘はしばし辺りを警戒していたが、危険が去ったことを確認すると大刀をぶんと振って背中におさめた。そして姉弟の前まで歩いてくる。
 「あ・・・」
 姉は、目の前にやってきた娘に緊張しながら、
 「ありがとうございました!」
 と頭を下げた。弟も、
 「ありがとう!」
 とそれにならう。
 娘は優しげな表情で微笑むと、そばに転がっていた盾も拾って背中に負い、二人に両手を差し伸べた。
 「握ってっていうこと?」
 と姉が訊く。娘はうなずいた。
 二人が娘の手を取った、と思った瞬間二人の耳にびゅうと風の音がした。そして気づくと、二人は見慣れた山のふもとに出てきていた。
 姉弟はぽかんとし、はっと気づいて娘のほうを見ようとしたが、彼女の姿はどこにもない。
 「あの人、どこ!?」
 弟が周囲を見回したが、それらしい姿はもう見えなかった。その代わり、
 「あっ!この声・・・」
 山のほうから聞き慣れた友達の声がした。そちらを見やると、自分たち向かって一目散に走ってくる友達や、その親、そして自分の母の姿が見えた。
 「お母さん!」
 弟が走り出す。姉はなおも辺りを見回して、胸に手をやった。
 (あの姿は・・・おばあちゃんに聞いた話では天狗様?でもどうしてわたしたちを・・・まさか・・・)


 次の日、姉弟は父母、そして祖母に連れられて山境にやってきた。彼女たちの手には、饅頭や肉などを詰めた袋があった。
 「ここじゃ」
 祖母は、とある大きな切り株を指差して言った。
 「ここが、わしらのご先祖が狼さんを助けた樹じゃよ。わしが小さいころに朽ちて倒れてしまって、今は切り株になっておるがのう」
 「それじゃあ、ここへ・・・」
 姉が切り株の上へ袋を置き、結びを解いて広げ、中にあったいくつかの皿を並べる。次いで父と母が別の袋を置き、饅頭や肉を皿に盛っていった。そして弟が袋を開き、よく煮た筍と、果物を皿に盛る。最後に祖母が水の入った器を切り株の上に置き、手を合わせると山のほうに向かって言った。
 「狼さん、あんたは天狗様になって今でもわしらを見守ってくれとるんじゃのう。何とありがたいことじゃろうか。これはわしらからの心づくしじゃ、どうか受け取って下さいませや」
 他の者も彼女にならって手を合わせた。そしてしばしの間、山に向かって頭を垂れる。
 やがて祖母が頭を上げると、一同も頭を上げた。そして帰途に着く。
 少し進んだところで、弟がくるりと振り返って、
 「ありがとう!」
 と叫んだ。姉も山に向き直って、
 「ありがとう!」
 と思い切り叫ぶ。すると、まるでそれに応えるように、山が風に吹かれてごうごうと音を立てた。
 次の日、姉弟と父が切り株のところに行ってみると、お供え物はきれいになくなっていた。そして兎が八羽、切り株の周りに並べられていた。 
 一同は、一度に運べない兎はそのまま残して、持てるだけの兎を持ち帰った。
 里の者は、獣も一度受けた恩は忘れないものなのだ、そして善行の報いは幾代にも渡るものなのだ、と噂しあった。

 

戻る










 「椛、ちょっといいかしら?」
 哨戒中に勝手にルートを外れてあらぬ方向へ行っていたとして上司からこっぴどく叱られ、ようやく解放されて外に出てきた犬走椛に、背後から誰かが声をかけた。
 振り返ってみると、それは鴉天狗の射命丸文だった。
 椛は怪訝そうな顔で応じた。
 「ああ・・・文様。・・・なにか」
 「何か、だって?」
 文はにっと笑って椛の鼻先に人差し指を突きつけた。
 「見てたよ?あんたが哨戒を中断して、あの子供たちを助けに行ったのを」
 「えっ」
 椛は(文字通り)狼狽した。
 文はメモ帳とペンを取り出して、
 「今、“ちょっといい話”的な話題を集めてるのよ。ほら、新聞は特ダネだけじゃなくって、ほのぼのした話とか笑える話とか、バリエーションが必要だから。さあ、あの子供たちとの関係を話しなさい。さあさあ」
 ずいずいと近寄る。椛はたじたじとなって、
 「あ、あの、近いです。近い・・・」
 「喋ったら、離れてあげる」
 「そ、そんな」
 椛は顔を背けた。その耳に文はふっと息を吹きかけた。
 「ひぅ!」
 椛はびくんと震える。「だ、だめ・・・」
 「どうしても言わないっていうのなら、仕方ないわね。あんたの体に聞くことにしよっかなーうへへ」
 「え!?」
 文はにたーっと笑うなり椛をぐっと両腕でつかむとそのままびゅんと飛び去った。
 「い、い、いやああああああああぁぁぁぁぁぁ・・・・」
 あとには椛の叫び声が空しく残った。






 そしてここは滝の裏側。
 「・・・・なるほど。昔助けてもらったお礼で、その一家をずっと見守っているのね」
 「はい」
 椛はうなずいた。「死ぬところを助けてもらったのですから、生きている限りあの人たちのために恩返しをしようと誓ったのです。人間より長生きはできませんが、自分の命がある限りと・・・でも、思わず長生きして天狗になってしまって」
 「その人間の子孫までずーっと見守っているのね」
 「はい。自分が生きている限り、と誓いましたから」
 「うーん、いい子だねえ」
 文は腕組みした。「なんて忠犬。“今日のわんこ”にも自信を持って送り出せるわ!」
 「犬じゃないです。それに“今日のわんこ”って何ですか」
 文、それはスルーして、
 「千里眼の能力もそれで身についたのかな?」
 「それは・・・どうでしょう。でも、おかげでいつもあの人たちを見ていられます。でも今回は私たちの山を挟んで逆の方向だったので、見つけるのが遅れてあの子達を怖がらせてしまいました」
 「あの程度の物、ひと吹きで吹き散らせなきゃ天狗とはいえないよ?もっと訓練しなきゃねえ」
 「す、すみません」
 「でもけなげに頑張る姿がまた可愛かったり」
 「や、やめてください」
 「でも、何で名乗らなかったの?自分があの狼だって。それどころかろくにしゃべらなかったし」
 「それは・・・」
 椛はちょっとうつむいて、「何だか恥ずかしかったから・・・」
 「わかってもらえないかもしれないでしょ。外見ぜんぜん違うんだし」
 「別にわかってもらえなくてもいいです。ほめられようと思ってやってるわけではありませんし・・・あの人たちが平静に暮らせるのであれば、それでいいです」
 「まったく」
 文は腕を組んだ。「まあ、あの人間たちがそれと気づいてくれるかどうかね。でも最近の人間は鈍感なのが増えたから・・・」
 そして手を叩いて、
 「明日、あいつらがどうするか見てくるわ。あんたは仕事してなさい」
 と言った。
 「は、はい」
 「それじゃーねー」
 文はさっさと滝の外へと出て行った。
 (まったく・・・)
 椛は乱れた衣服を整え、立ち上がって一息ついた。
 (文様もあんな感じだけど、優しいところあるな)
 それから滝の外へと出て行った。



 次の日、夕刻になり仕事の終わった椛は、文に呼ばれて里に近い山の境へと連れてこられた。
 「あの子達とその家族が、あれを」
 文は切り株の上に並べられた饅頭などさまざまな食べ物を指差した。
 「・・・・・・・・」
 椛は深い息をついた。それは忘れるはずもない、自分があの子達の先祖に助けられた樹の切り株の上だった。
 「わかってくれてたみたいね」
 文は微笑んだ。「これだけの量、一日でそろえるのは大変だったでしょうね」
 椛は無言で切り株の上を見下ろしている。
 「ああ、あとあの子達が帰り際に大声で『ありがとう』って叫んでたから、あんたに代わって山を風で揺らしておいたわよ」
 椛は文に小さく頭を下げ、切り株のそばに降り立った。そしてひざまづくと、自らに供えられた食べ物に対して二回拍手を打ち、それから一皿ごとにうやうやしく頭上に押し戴いた。その手は小刻みに震えていた。
 文は空中に浮いたままだったが、椛が小さく嗚咽しているのがわかった。
 (あの子とあの家との絆は、これからもずっと切れることはないんでしょうね)
 文は思わず新聞記者口調でひとりごち、彼女のそばに降り立った。
 「それじゃ、ありがたくいただきましょうか?」
 「・・・はい!」
 椛は喜びの表情で文を見上げた。その目元には涙が光っていた。

 食事の後、椛は八羽の兎を捕まえてくると切り株の周りに並べ、文とともに妖怪の山へと帰っていった。
 「律儀ねえ」
 文が苦笑する。「残してくれるかしら?」
 「おそらく・・・」
 椛は微笑んだ。「いささか多すぎましたし」
 次の日の夕方、文が切り株のところに言ってみると、三羽の兎が残されていた。
 「ま、さすがに多すぎよね」
 文は風を起こして三羽を宙に巻き上げた。
 「世話代で一羽もらってやろうかな」
 そして、山へと戻っていった。