私は逃げていた。 自分を追っている「もの」が何かはわからなかったが、 何か恐ろしい、捕らえられればきっと命はないであろう脅威的な「もの」であることは、 私の全細胞が本能的に察知していた。 私は山登りが趣味で、季節を問わず各地の山を訪ねては、頂上を目指すだけでなくその山を骨の髄までしゃぶり尽くすことを好む。 今回も初春のころ某県のある山を訪ね、地図にかろうじて載っているような狭い山道を踏破して山の隅々まで歩き回ろうとしていた。 この山には伝説があり、古くは「山神」がいて麓の村々から人身御供を取っていたとか、 それが地方を旅していたとある神に懲らしめられて以来、祭りと引き換えに人間たちに福を与える存在となったとか、 民俗学者が喜びそうな話がいくつもあった。 山中にはそれをうかがわせるような石碑や社がいくつかあり、 今では人も通わなくなったであろう荒れ果てた山道には、 「八○比○・・・障神社」 とかろうじて読める小さな社があった。 私はそこがいかにも荒廃しているので何やら申し訳ないような気分になり、 本当になんとなくだったが、自分の手の届く範囲の枯葉や埃を簡単に払い、それから拝礼して立ち去った。 それからしばらくして、私は自分の後ろに何かの気配を感じた。振り返ってみるが、そこには何もいない。 しかし、不意に背筋がぞくりとし、体ががたがたと震えだした。 そして、小さいころ猛犬に出あってしまい、恐怖のあまりすくみ上がってしまったときのことが脳裏に稲妻のように蘇った。 何かおかしい、と思った。目には見えないが、何かとてつもなく恐ろしいものがいるという感覚。 私は前を向いて走り出した。まだ日中だったが、太陽は山の陰に隠れ、周囲は薄暗くなっている。 それが私の恐怖をいっそう加速させていた。 すると、私の後ろにいる「もの」も、私を追いかけてきたのだ! 後ろをちらりちらりと見返っても、そこには何もおらず、何かの動物が立てる何の物音も立っていない。 だが、何かが迫ってきている、そういう感覚がどんどん私を圧迫してきた。 そして突如、私の背中のリュックを何かが引っかいた。私の全身が冷たくなる。すぐ後ろにいる――― 私はとっさに、ポケットの中に残っていたクラッカーを包み紙ごと後ろに投げた。 すると、その恐怖感は一瞬緩み、その場にとどまって私を追わなくなった。 私はその隙に全力で山道を駆け下った。 しばらく走ると、アスファルトで舗装された道に出てきた。私はほっとした。 しかしその時、先ほど感じた恐怖感がまた背筋を駆け上った。また私を追ってきた! 私は舗装道路に入ると、一目散に麓を目がけ逃げ走る。 舗装されているとはいえ狭い道、またこの山には特に観光するところがないため、車の姿は全く見えない。 川沿い、崖の下に作られている道のため、周囲は夕闇のように薄暗い。 私は、今度はリュックから別のお菓子の箱を取り出すと、また後ろに放った。 それは道路の上で跳ねると、崖下の崩落防止ブロックに当たって跳ね返る。 するとその瞬間その箱はいきなりぐしゃっと押し潰され、中身を勢いよく周囲に散乱させた。 ブロックに当たったからではない。当たって跳ね返ったあと、何ものかに上下からの力を加えられたのだ。 それを視界の隅に捉えた私は、もう正気ではいられなかった。 目には見えない何かが、私を、おそらくは食べようと追ってきている・・・ 私はさらにスピードを上げて走った。その最中にも、私は次の食料を手に取り、 また「あいつ」が追いついてきたときのために備えた。 そうしながら、私は「三枚のおふだ」の昔話を思い出していた。 あの昔話では、たしか小坊主が山姥に追いかけられるんだったろうか。 ここでは「食料」が「お札」だ。あとどれだけ残っていただろうか・・・ それからまた二回、同じことが繰り返された。そして、もうリュックの中には食料がなくなってしまった。 後ろからは、「何か」が迫ってくる。その勢いはどんどん増してきているような気がした。 こまごまとしたお菓子は、彼の飢えをさらにいや増すだけだったのかもしれない。 見上げるような巨木から感じるような圧倒的な存在感が自分の後ろに迫る。もう投げるものはない・・・ しかし私は次の瞬間ひらめいて、リュックを外すと後ろに投げた。 リュックが路上を転がる、と、ばりっと音がしてそれが引き裂かれた。そして中身をあさる音がする。 食料はなくとも、今までの経緯上おそらくは投げたものに対して「食料ではないか」と反応するのでは、 との一か八かだったが、それが当たった。 しかし、今回は中に食べられるようなものは入っていないので(悪食なら別だが)、 稼げる時間はわずかだろう。私は残る力を振り絞って、逃げた。 おそらく、もし本当に存在するのならば、私を追ってきているのは「山神」なのだろう。 山中の社は、あるいはその山神を祀っていたのかもしれない。 そして、私が余計なことをしてそれに見とがめられてしまった・・・ 山神は人身御供を取ったという。この神は人を食うのだ。 しいて言えば敬虔な心からしたことが、破滅につながってしまうとは。 しかし私は運命を呪うひまもなく、走った。 あれが山神なら、山を下りさえすれば、山の領域から脱すれば、何とかなるはずだ。 また「それ」が背後に迫ってきた。騙されたことを悟ったのか、怒りの形相も凄まじく追ってくる、様な気がした。 今までとは恐怖感が違う。捕まったら、どのような残酷な殺され方をするだろうか。 それが私の体から疲れを一気に吹き飛ばし、さらに足を前に進める。 と、前方に橋が見えてきた。道に沿って流れていた川がここで曲がっているのだ。 そしてその橋のそばに、道祖神が立っているのが見えた。 私は狂喜した。ここが山と麓との境界なのだ!あの橋まで逃げれば、私は助かる! 私は最後の力を振り絞って走った。50メートル、30メートル、10メートル・・・ その時、わたしの右ふくらはぎを何かがひと薙ぎした。 あまりの恐怖のためにもはや痛みは感じなかったが、急激に右足から力が抜け、私はふらついた。 ごうっ、と音がするような感覚がして、私の頭上に何かが覆いかぶさってきた。 その時、私は最後の最後の切り札、さっき捨てたリュックの中からただひとつ抜き出していたもの―― 初詣の時に神社で買っていた御守――をかざした。 すると背後のものは大いにひるんでぎゅん、と渦を巻き、後方へと飛び退いた。 その隙に、私は左脚にありったけの力をこめて踏ん張ると思い切り前方に跳び、 道祖神の境界を越えて橋の上へと転がり込んだ。やった!助かった――― とその瞬間、私の体が橋の欄干に叩きつけられた。あまりの衝撃に御守が手から離れ、遠くに転がっていく。 後頭部をしたたか打ちつけられ、頭がぐるぐるとなって一瞬気が遠くなった。 追いつかれた!?どうして?道祖神の境界は越えたはずじゃなかったのか? 意識が混乱する中、ごろごろと転がって仰向けになる。その胸を何かがずん、と踏みつけた。 まるで丸太のようだが、何かは見えない。いや、おぼろげに見える。 それは毛むくじゃらの動物の足だった。そして、私を、凶悪な顔立ちの獣が見下ろしていた。 その顔は、狼の頭に鹿の角、猪の牙がついた、何とも混乱したキメラのものだった。 私は絶叫した。小さいときに出会った猛犬など物の数ではない化物を目の前にして。 体の自由は奪われた。もう逃げられない。この上はもう、ひと思いに息の根を止めてほしい、 いや、まだ死にたくない、死にたくない、助けてくれ、命だけは・・・ しかしその「獣」は慈悲の表情など全く見せず、私に噛み付いてきた。 その一瞬はまるで永遠のように感じられた。その時私は願った。誰か見ていないのか、誰でもいい、自分を助けてくれ!と。 その瞬間、橋の向こう側から凄まじい烈風が吹きつけてくると同時に無数の光の弾が波のように飛来し、 「獣」の巨体を蜂の巣に貫いた。 その閃光に私の目はくらみ、意識は飛んだ。 私がはっと意識を取り戻して起き上がろうとすると、全身に激痛が走った。 「しばらく横になっていなさい」 その時唐突に女性の声がして、私はびっくりした。 声のほうに頭を向けて見ると、そこには一人の女性がいた。 年のころは・・・二十歳を過ぎた娘のようでもあり、また、まだあどけない少女のようにも見える。 意識が混乱しているせいだろうか、それすらもわからない。ただ、その面立ちがとても美しいことはわかった。 彼女は白いドレスの上に黒い縁取りのある紫色の衣をまとい、片手に傘を持って橋の欄干に腰掛けていた。 頭には赤いひものついた白い帽子をかぶっており、美しい金髪が夕暮れ間近の冷たい風にそよいでいる。 「あなたは・・・」 私が言いかけると、彼女はそれを遮るように、 「あなた、気を抜くのが早すぎたわね」 と言った。「ここはまだ、“橋の上”だっていうのに」 「橋の・・・上?」 「“あいつ”が橋の向こうの道祖神までしか下りてこられない、と思ったんでしょう」 「は・・・はい・・・」 その女性が誰なのかさっぱりわからなかったが、その周囲には近寄りがたい空気が漂っていた。 そう、今しがたまで自分を追いかけていたあの「獣」よりも恐ろしく、禍々しい空気が。 私は戦慄し、彼女の言葉におとなしく応対するしかなかった。 「ふふふ」 「彼女」は妖しく笑った。 「それが間違いなのよ」 「・・・違う・・・のですか?」 「知りたい?」 「・・・・はい」 知りたくない、と言ったら冗談でも殺されそうな気がした。 「じゃあ教えてあげましょう。確かに橋向こうの道祖神は山の境界。でも、麓の境界は、橋のこっち側の道祖神なの」 「あちらにも道祖神が?」 「ええ。そして、この橋の上は、そのどちらにも属さない空虚な地帯。 古の境界はどこもこのようなものだったわ。 こちらの世界とあちらの世界は、互いのどちらにも属さない空白地帯によって隔てられていた。 だからここは異人(まれびと)との交流の場、人と神とが出遭い、交流する場だった。 橋もこういう場所のひとつ。宇治の橋姫、一条戻り橋の伝説を知っているかしら?」 「はい」 「あら、若いのに感心ね」 「ありがとうございます・・・でも今頃じゃ、いい年した人もそういうこと知りませんよ」 「ふふ、六十年前も日本の歴史上の境界だしね。 とまあ、そういうわけで、あなたが助かるには、橋を完全に渡りきらなければならなかったというわけ」 その言葉に、私はぎょっとした。 「助かるには・・・?って、なら僕はもう死んで・・・!?」 それを見た「彼女」はクスクスと笑った。 「ふふっ、御免なさい。“あなたが自力で助かるには”って訂正するわ。もちろん、あなたは生きている。体、痛いでしょう?」 「は、はい、そうでした」 「これでまたひとつ賢くなったわね。今度こういう目にあった時は、“自分の世界”に戻ってくるまで決して気を抜かないことね」 「今度・・・いえ、もう遭いたくありません」 「あら、残念ね」 「そうなんですか」 「そりゃあね。今どき山の神に追いかけられる運の良い人間なんてそうそうお目にかかれないわ」 「運が良いって・・・」 「あら、運が良いわよ。あまつさえ、組み敷かれるなんて」 「死ぬところでした」 「そして助かったのだから、なお運が良い」 「なお・・・ですか」 「なお、よ。神様に触れてもらえるなんて、何ていう福徳かしら?さあ、立ってみなさい」 「立つって、そんな・・・」 全身が痛いのに、そんなことできるわけがない。しかし「彼女」はその時凄まじい形相になり、 「さっさと立つ!」 と叱りつけた。 私は体の芯まで震え上がり、すぐさま起き上がると直立した。そして、自分の体が何ともないことにびっくりした。 戸惑う私に、「彼女」は言った。 「山の神に触れたということは、山の力をその身に受けたということ。少々の怪我なんか、すぐに治ってしまうわ」 そういえばあれほど走ったにもかかわらず、体には全く疲れが残っていない。 それどころか、これからいくらでも走れそうな気がする。ただ、体が張る感覚があって少し息苦しい。 「これは・・・すごいです」 「とはいえ」 「彼女」は指を立てて言った。「その力は普通、村などの共同体全体に対して与えられるもの。 個人がその力を享ければ、たいていの場合その力を制御できずに破滅してしまう」 私は驚き、「彼女」に訊いた。 「それでは僕はどうなるのですか!?」 「彼女」は首をかしげて悪戯っぽく言った。 「うふふ・・・どうなるのかしら」 そんな無責任な。 「何とかならないのですか」 と私が血相を変えると、「彼女」はにっこりと笑った。 「いいわ。何とかしてあげる」 「彼女」は欄干から下りると、私のほうへと歩いてきた。 私はそう背の高いほうではないが、 彼女の身長はそれよりも顔半分ぶん高かった。というより、こちらに歩いてくるにつれて身長が伸びたようにも感じたが・・・ 本当につかみ所のない人物だ。いや、人だろうか? 「彼女」は私の前に立つと、不意に私を抱きしめてその額に唇を触れ、すうっと大きく息を吸う。 すると、私の中から力がどんどんと抜けていく感覚があり、同時に気分が楽になってきた。 「はい、おしまい」 「彼女」が額から唇を離し、両腕を解く。と、いきなり大量の力を抜かれたせいか、私はふらついて倒れそうになった。 「あらあら」 「彼女」は苦笑し、また私を優しく抱き止めた。 「これで大丈夫よ。もう日常生活に差し支えはないわ。といっても、神の力の余韻は残っているから、 これからは普段見えないものも見えるようになるかもね」 「はい・・・すみません、ありがとうございます」 そういう私は、たぶん赤面していたと思う。 「彼女」は、そのままの姿勢で言った。 「あの子もおとなしくなったと思っていたけど、最近は人間にも祀られなくなったし、 山も手入れされなくなって荒れ果ててしまったから、人を食べずにはどうにもならなくなったのかもね。 あれも可哀そうなところがあるわ」 あの恐ろしい存在を「あの子」とは、やはりこの人はただならぬ存在なのだろう。 そういえば、自分を助けてくれたのはこの人なのだろうか? 彼女は答えて言った。 「・・・そうよ。あなた、誰か助けてくれ、って祈ったでしょう?」 「それで僕を・・・ありがとうございます・・・」 「どういたしまして。あなたの心遣いに免じて、ね」 心遣いとは何だろう、としばらく考え込んだが、ふと、あの山中の社でのことを思い出した。 そして、この山にまつわる伝説のことも。 まさかと思いつつ訊いてみる。 「それでは・・・あなたはあの社の神様なのですか?人身御供を取る山の神を懲らしたのも、あなたなのですか?」 「彼女」はふっと笑った。 「神様ね・・・そう呼ばれてもぴんとこないけど、私がもらったものだから、邪険にもできないしね。 人を越えるものが人を食べること自体はかまわない。人間も、牛や豚や鳥や魚、その他もろもろの動物を食べているでしょう? ただ、あれはそれが度を越していたから・・・」 「ならば、今回の場合は、私一人くらいだったら見逃していてもかまわなかったのですか?」 「そうよ。でも、今回はあなたが私の社に、たとえ気持ちでも良いことをしてくれたから、それに報いてあげたの」 「そう・・・ですか・・・」 「あら、どうしたの?」 私は安心したのか、急激に睡魔に襲われた。「彼女」の懐に抱かれて、安心したからかもしれない。 この人――いや、神様だろうか――は、先ほどはひどく恐ろしかったが、今はとても優しく、暖かく感じられた。 本当につかみどころがない、不思議な存在・・・ そこまで考えた時、私の意識は眠りの淵に沈み込んでいった。 次に目が覚めたとき、私は病院のベッドの上だった。 そこは私が登った山からいちばん近くにある病院で、私が目ざめたのは登山した日の三日後だった。 話によれば、昨日の夕方、件の橋の上で倒れていた所を発見されたということだった。 途中投げ捨てたはずのリュックも、引き裂かれてはいたが傍らに落ちていたということで、 山中で道に迷って一夜を過ごし、猪か熊かの獣に襲われて必死で逃げてきたのですね、と尋ねられた。 私は日付のことで意識が混乱していた。私は丸二日その橋の上で倒れていたのかと思ったが、 一昨日の夕刻に橋のたもとを通りかかった人がおり、その時は私の姿はなかったとのことだった。 私が体験したと思っていた出来事はやはり夢で、実際は山で迷い、獣に襲われた疲労から悪い夢を見て、 意識のほうも飛んで混濁していたのだろうか、とも思った。 ただ、不思議なことに、破れたリュックの中に、古ぼけたお碗が入っていたとのことだった。 もちろん自分はそのようなものを入れた覚えはないし、また、山中でそのようなものを拾うことも考えられない。 私はすぐに退院できたので、一連の出来事が事実かどうか確かめるために再びその橋へと向かった。 体はまだあの恐怖の記憶に尻込みしていたが・・・ あの橋に着き、道祖神のところで立ち止まる。一歩踏み出すと橋の領域になるが、 ここに入ると、またあの獣に遭うかもしれない。 躊躇していると、不意に目の前、橋のたもとにあの女性が姿を現した。 私が腰を抜かさんばかりに驚くと、「彼女」はぷっと吹き出して面白そうに笑った。 やはり、あの出来事は夢ではなかったのだ。 私は、意識を失ってから二日間「彼女」の住居で看病され、またこの橋に戻された、とのことだった。 お碗のことを訊くと、それは自分の住処に来た記念のお土産だといい、よかったら持っていてくれ、ということだった。 私がそれを大事にすると言うと、彼女は少し嬉しそうにしていた。 それから彼女は別れの言葉を言い、橋の上で姿を消した。 私は家に帰ってから、彼女についていろいろと調べてみた。 あの社にあった文字、 「八○比○」 は、どうやら、 「八衢比売(やちまたひめ)」 であるらしいとわかった。「八衢比売」とは『延喜式』「道饗祭祝詞」の中に出てくる神の一柱で、 災いを防ぐ「塞神(さいのかみ、さえのかみ)」三柱のうちの一。塞神はまた「障神」とも書くので、 あの社の祭神はおそらく八衢比売で間違いないだろう。 この塞神は中国起源の道祖神と習合され、境界を掌る存在となっている。 しかし境界を掌る神があのようなところに祀られているとは錯誤もはなはだしいが、 それはここの住人たちが無知だったせいか、 それとも「彼女」の名前の音あるいは字面がその境界神に似ていたかの理由で混同があったためか。 おそらくは、その祭神が山の神を懲らした場所があの位置だった(あるいは、あの位置とされていた)のだろう。 ただ、「彼女」自体は、橋の上に出現したこと、そして話の内容からして、 境界に関係ある存在であることは間違いなかった。 恐ろしく、それでいて包容力のある不思議な「彼女」の姿は、 それからも私の心から離れることはなかった。 私はそれから、時々不思議な体験をするようになった。 主に感覚がひどく鋭敏になったり、通常見えないものが見えてしまったり。 「彼女」が言っていた、あの山での体験の余韻のせいだろうか。 そしてその余福か、私はとある橋の上で再び「彼女」に出逢った。 「彼女」は驚きと喜びがない交ぜになっていたであろう私の顔を見つけると、 私のことを覚えていたとみえてこちらに向き直り、微笑みながら会釈した。 私は嬉しくなって挨拶を返し、簡単な会話の後、失礼ですが、と断った上でどうしても訊いてみたかったことを訊いてみた。 自分の名前は○○○○といいますが、あなたの名前は何とおっしゃるのですか?と。 彼女はにこやかな表情で答えた。 「私の名は紫。八雲紫というのですよ」 |