胡蝶の舞


 

 白玉楼の上を白い蝶が一羽、ひらひらと舞っていた。
これは死者の魂が蝶の形をとったもので、時々そういう蝶が白玉楼の周囲を舞った後、冥界へと向かう。
 「あの蝶を見てどう思うかしら?」
 庭を掃除していた魂魄妖夢は、いつの間にか背後にいた西行寺幽々子に声をかけられた。
「どうと言われますと・・・」
庭掃除の箒の手を止めた妖夢は口ごもる。
 幽々子は微笑んで、
「いいから、思ったことを何でも言ってみなさい」
と妖夢にすり寄り、顔を近づけた。
 妖夢はどぎまぎして、
「は、はい・・・ええと・・・何の恨みもなく、安らかに飛んでますね」
と答えたが、それを聞いて幽々子はにやりと笑った。
「ぶっぶ〜。は〜ずれ。あれは、何の望みもない飛び方ね」
「なぞなぞだったんですか?」
妖夢は顔をしかめた。「でも、何の望みもないとは、どういうことですか?」
「現世でやりたいことを全部やりつくして、もう他に何もいらないほど満足して、頭が空っぽになってふわふわしてるのよ」
と幽々子。
 妖夢は、自分の言ったことでもそう間違ってはいないじゃないかと思ったがそれは口に出さず、改めてその蝶を見上げ、
「それは・・・良い人生だったんですね」
と言った。
 幽々子はふうとため息をついた。
「妖夢、あなたは庭師なのに何もわかっていないのね」
「え・・・違うのですか?」
妖夢は首をかしげた。「それに、庭師というのも関係あるのですか?」
「大いにあるわよ」
幽々子はそう言ってから、「あ、そうか、ここにはそういうのはいないんだっけ」
と小さく舌を出した。
「・・・・・・申し訳ございません。私には・・・わかりません」
妖夢は少しうなだれた。それを見て、幽々子は表情を緩めて右手を下ろし、
「妖夢は何もかもまだまだだけど、知らないことを素直に知らないというのはいいことよ」
と言った。「だから、今回は特別に教えてあげる」
妖夢も、箒を傍らに置いて言った。
「お願いします。私も知りたく思いますので」

 幽々子は庭の菜園、そして木々を指して言った。
「蝶は、もともとは何なのかは知っているかしら?」
「・・・卵?」
「遡りすぎ。その次よ」
「毛虫ですか?」
「そう。あと青虫とか芋虫ね。まあ呼び方は何でもいいんだけど、それらは卵から生まれると、
畑の作物を食い荒らしたり、木々の葉を喰い尽したり、木の内部を穴だらけにしてしまうのよ。
ここには毛虫の幽霊がいないから妖夢にはすぐにはわからなかったんでしょうけど、
庭師として知識だけは持っておかなくてはね」
「はい。それは書物を読んで心得ています」
「えらいえらい。で、その毛虫がさなぎになり、羽化して蝶になる、これも知っているわね?」
「はい」
「あの蝶もいっしょなのよ」
幽々子が右手を宙にかざした。
「現世で人は様々な罪を犯す。たとえ幸福な人生を送っている裏でも、
周囲に、また巡り巡って全くかかわりのない人に対しても、日々罪を犯している。
たいていの場合、人はそれに気づかない。自分は正しく、真っ当な人生を送っていると思っている。
でも、毛虫が草木を食い荒らさなければ生きていけないように、人間も罪を犯さずに生きていくことはできない」
幽々子の右手にその蝶がひらひらと舞い降りてきて止まった。
「この魂は、現世で満ち足りた生涯を送ってきたわ。でも、息絶える瞬間まで、それを省みることをしなかった。
自分がどれだけの草木を食い、どれだけ醜いさなぎとなり、
蝶となってからはどれだけ自らの美しさを誇って周囲を軽蔑し、それで満ち足りた気分になっていたか。
この魂はそれを振り返ることをしなかった。今もなお。だからこのような姿になって、あのように舞えたのよ」
 妖夢はそれを聞いて少し震え、尋ねた。
「それでは、満ち足りて死ぬことは罪なのですか?」
「省みないことが罪なのよ。
たとえば、いけない事だとわかっていてあえて人を殺してしまうのと、人を殺してもそれがいけない事だとわからないのと、
どちらがより罪深いかしら?」
「・・・・・・あとのほうです」
「そう。だから、普通の人間よりも時に罪人のほうが悟りに近いのよ。
この魂は、確かに現世において犯罪は犯さなかったかもしれない。
でも、自分のしたことについて一切自覚しなかった。自分が生きることでどれだけ他人に迷惑をかけたか、
全く考えなかった。これは、許しがたい罪なのよ」
「・・・・・・なんだか、わかるような気がします」
妖夢は、最近ある人物から聞いた言葉を思い出していた。
 幽々子はくすりと笑って言った。
「ふふ、妖夢は物分かりがいいわね。物分かりのいい毛虫」
「私も毛虫ですか!?」
「そうそう」幽々子は妖夢の上着からスカートまでするりと撫でた。「あ、緑色だから毛虫じゃなくて、青虫ね」
「きゃ・・・!」
妖夢はびくんと震えて直立した。そして言う。
「そ、そんなに私は幽々子様にご迷惑をおかけしていますか?」
幽々子はうふふと思わせぶりに笑って言った。
「さっき言ったでしょ?そういうものは省みるものだって」
「・・・・・・・みょん」
妖夢は口ごもってしまった。
 幽々子は右手を宙に向けゆっくりと一振りした。蝶が宙にふわりと投げ出される。
「さあ、飛んで行きなさい。冥府へと。あなたの罪に応じて、きっちりと裁いてもらえるわよ」
その蝶は今の会話を聴いたのか、先ほどよりはやや重いはばたきで、よろよろと飛び去っていった。
「今からでも過去を省みれば、少しでも刑罰は軽くなるのでしょうか?」
と妖夢。
「それは私にもわからないわ」
と幽々子は答えた。

 妖夢はその日の勤めを終えて自室に戻ると、その日一日の行動をしっかりと思い起こし、
それらいちいちについてあれこれと思いめぐらした。
 床について寝る前、妖夢は、幽々子様の生前はいったいどうだったのだろう、とふと考えた。
自分から訊くことは憚られる質問であったが、以前少し博麗神社の巫女と話をしたときに、
幽々子は生前の記憶を一切失っていると聞いた。多分八雲紫なら知っているだろうが、とも。
 だが、妖夢にとってはそれ以上の詮索は無用のことだった。彼女の主人は白玉楼主の亡霊・西行寺幽々子なのだから。
妖夢はそのくだらない考えを頭の中から消し去ると、明かりを消し、目を閉じた。
すると、彼女の瞼の裏に、少し前に幽々子が紫との宴席において余興で舞った「胡蝶の舞」の姿が浮かんできた。
ゆったりとした、幽美で、それでいて風雅な舞は、見ている者の魂をまったく虜にするようだった。
 妖夢は、眠りに落ちる意識の欠片の中で考えた。
(幽々子様が生前のことを忘れられたのは、きっと幽々子様にとってよいことだったのだ。
あれほどの美しい舞を舞われる幽々子様は、
生前、一人の人間が省みるにはあまりにも重く、深すぎる罪を負っていたに違いないのだから―――)
 

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